田邉尚雄(1885‐1984)は、東洋音楽学会の初代会長で、のちに名誉会長となった音楽学者です。田邉尚雄賞は、東洋音楽研究のいっそうの発展を促し、わが国における学術の発展に寄与するために、東洋音楽に関する研究の奨励及び会員の研究業績を表彰することを目的として昭和58(1983)年度から実施されています。この賞の生まれた経緯については、機関誌『東洋音楽研究第49号』(1984)に以下のように記されています。
毎年、学会員5名から構成される田邉尚雄賞選考委員会が作られ、審査を行う前年の1月1日から12月31日までに発行された会員による研究業績を対象として選考が行われます。
最新の受賞者・授賞対象
2024年度、第42回田邉尚雄賞は、下記のように決定いたしました。
受賞者・授賞対象
柴佳世乃
『仏教儀礼の音曲とことば─中世の〈声〉を聴く─』
(法蔵館、2024年2月28日発行)ISBN978-4-8318-6283-9
山田淳平
『近世の楽人集団と雅楽文化』
(吉川弘文館、2024年5月1日発行)ISBN978-4-642-04363-2
選考経過
対象期間中に刊行された会員の業績15作のうち、授賞候補としての要件を満たす14点を選考対象とし、回覧・精読を行った。第一次選考(2025年2月16日)で上位6作に絞り込み、3月9日にzoomで開催した第42回田邉尚雄賞選考委員会において慎重に審議した結果、上記2件が授賞にふさわしいとの結論に達した。
授賞理由
柴佳世乃氏の『仏教儀礼の音曲とことば─中世の〈声〉を聴く─』は、著者の二十年来の思索のなかでたどり着いた「ことばと音曲とは不可分に結びついている」という観点から、中世の仏教儀礼の実態と歴史的意味を考察し、立体的に理解しようとする労作である。三部構成の同書では、まず中世において〈声〉(音声)への社会的関心が高まる様子を仏教儀礼とその周辺芸能に関する史料の考察から読み解く。その後、仏教儀礼の重要な部分を担う読経と唱導それぞれの音曲とことばについて、より深く考察する。日本文学を専門領域とする著者の実証的文献研究に基づいた着実な分析と論述がなされているが、各章の構成に強い関連性は見出し難く、各々独立した論文として成立しているようにも読める。しかしながら、中世における〈声〉の問題を解き明かしたいという著者の一貫した思いを汲み取ることができる。さらには、例えば音声の記述による正統性や権威性の獲得など、儀礼研究の議論にも通じる普遍的な問い立てを見出すことができる。以上のように、本書は著者の長年の探索によってもたらされた独自の視点と量・質ともに豊かな史資料に基づく精緻な分析と検討、さらには確実な筆致による刺激的な著作であり、田邉尚雄賞に相応しい好著である。
山田淳平氏の『近世の楽人集団と雅楽文化』において、著者は近世雅楽史の先行研究を的確に批判したうえで、専業の芸能者と素人の門弟の間をつなぐ媒介・回路の諸相とそれらが全体としてどのような文化・芸能分野を構築しているかを描こうとする。この問題意識のもと、日記をはじめとした多数の史料を駆使し、雅楽文化が量的にも質的にも拡大・深化していった近世という時代における地下楽人の社会的動向を、多角的に描き出すことに成功している。日本史学の正統的な方法論を用いて精緻な分析と議論が進められた点を評価する一方で、音楽学的な視点から見た物足りなさや、近世の雅楽文化の全体像とその意義をより踏み込んで追究してほしかったとの指摘もあった。しかしながら、本書の貢献は近世の雅楽文化そのものが拠って立つ土台を明らかにしたところにある。本書が博士論文に基づく著作であることから、今後のさらなる研究の深化や視野の拡がりが期待される。以上のように、本書は明確な研究の目的と多様な史料、精緻な分析と筆致に支えられ、新たな観点から近世の雅楽文化像の再構築に真摯に取り組んだ、田邉尚雄賞に相応しい好著である。
選考委員:海野るみ(委員長)、奥中康人、高瀬澄子、田中有紀、濱崎友絵